西目屋村指定文化財「広泰寺および不識塔」と齋藤主

更新日:2023年03月01日

広泰寺(れんが造り2階建、延床面積91.67平方メートル)

林の中にある小さな社殿の写真

 元は米沢城下の北寺町(現在の山形県米沢市中央7丁目)にあった、上杉謙信ゆかりの曹洞宗寺院。齋藤主(さいとう つかさ)は明治40年(1907)、廃寺同然であった不識山広泰寺の寺格を譲り受け、明治44年(1911)、西目屋村川原平に不識山広泰寺を再興しました。落慶入仏式は大正2年(1913)9月に行われています。当時は境内北側に庫裏があり、暗門の滝を訪れる観光客の宿泊場所としても利用されたようです。

 赤れんが造りの本堂としては日本初であると言われており、今日でも寺院建築としては大変珍しいものです。平成9年(1997)に齋藤家から西目屋村へ寄贈され、平成10年(1998)12月、本堂の保存改修工事が行われました。

不識塔(れんが造り、基底直径5.94メートル、高さ20.8メートル)

 齋藤主が川原平開拓記念碑として造営したれんが造りの塔で、大正元年(1912)に完成しました。れんがの原料(粘土や砂)は川原平など村内で採取したと考えられ、美濃(現在の岐阜県南部)や大阪、福井から職人を呼んで焼きました。

森の中に建てられた鉄骨の塔の写真

 塔の名称は広泰寺の山号と同じく、上杉謙信の法号である「不識庵謙信」にちなむといわれています。また、形状については、法隆寺(奈良県)の百万塔を参考にした、あるいは、「主」の字をかたどったものだと伝えられています。

 主の死後、遺体は遺言により防腐処置がなされ、不識塔の祭壇下へ埋葬されました。昭和55年(1980)に火葬され、菩提寺である真教寺(弘前市新寺町)に改葬されています。

 不識塔は、平成9年(1997)に広泰寺本堂とともに齋藤家から西目屋村へ寄贈され、平成14年(2002)度から翌年度にかけて保存改修工事が行われました。塔を囲む鉄骨はその時以来のものです。

 広泰寺と不識塔は平成14年(2002)2月に、貴重な文化遺産を後世に伝えるため、村の有形文化財に指定されています。指定理由では、れんが造りの外観や工法等について、「あらゆる面で当時としては卓越した建造物である」としています。

齋藤主

 齋藤主は万延元年(1860)、津軽藩士の長男として弘前城下に生まれました。廃藩により士族が困窮する中、主も少年時代から苦労を重ねましたが、16歳で念願の上京を果たします。翌年には東京警視局の巡査になり、以後数々の職種を経験しながら、測量・土木技師として大成します。鉄道建設などの国家事業に従事した後、弘前市で独立して土木建築請負を業としました。

 主には篤志家の一面もあり、明治39年(1906)には堀江佐吉らとともに図書館を建設して弘前市に寄贈しています。現在、同市の追手門広場にある旧弘前市立図書館(青森県重宝)がそれです。

 西目屋村との関わりでは、明治35年(1902)の凶作であえぐ村民を救うため、川原平地区の開拓に身を投じました。村民を指導して岩木川本流の大川からトンネルを築いて用水を引き、80ヘクタールもの原野を水田に変えたほか、植林事業や暗門の滝へ至る道路開削などの観光事業にも尽力しました。

 晩年、主は村民の啓蒙を図る目的で、川原平集落西方の台地に広泰寺(こうたいじ)を造営し、自ら住職になりました。明治44年(1911)のことです。その翌年には集落を見下ろす焼山の頂に、開拓を永年に伝えるために不識塔(ふしきのとう)を建てました。村民はこれを「つかさの塔」と呼び、開拓の功績を語り継いできました。大正8年(1919)12月23日、病気療養先の東京で死去(享年59歳)。

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